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[VR撮影] 宮城県南三陸町「高野会館」遺構保存プロジェクト

東日本大震災で南三陸町を襲った大津波から327人と犬2匹の命を救った結婚式場高野会館を震災遺構として保存しようというプロジェクト
高野会館1階

南三陸町は、東は太平洋に面し、三方を山に囲まれた地域で、地形的な特性から津波の影響を受けやすく、東日本大震災による大津波では、6割以上の建物が崩壊し、死者、行方不明者を含めて800名以上の犠牲者が出た。

震災前の2007年5月に空撮された町の様子

結婚式場高野会館は、町の中心を走る国道45号線に面し、周りはスーパーや病院など多くの建物とともに街の中心部に存在していたが、一般の家屋は崩壊し、残った建物もほとんどが取り壊され、現在では高く積み上げられた盛土に囲まれた状態で存在している。

2013年5月の時点でのGoogleMapによる撮影
2018年3月現在の様子

この高野会館の所有者である株式会社阿部長商店グループの南三陸ホテル観洋の女将阿部憲子さんは、「千年に一度の災害は、千年に一度の学びの場。生き残った者として震災を風化させたら亡くなった人に申し訳ない」と、公費による解体補助を受けず、保存する決意を固めた。

南三陸ホテル観洋の女将阿部憲子さん
南三陸ホテル観洋の女将阿部憲子さん
湾の向こう側に見えるのが南三陸ホテル観洋
湾の向こう側に見えるのが南三陸ホテル観洋

南三陸町では、43名が犠牲となった防災対策庁舎を震災遺構として、とりあえず2031年まで解体せず、震災復興祈念公園の一角に保存することになっている。とりあえずとしたのは、遺族の方たちに保存に反対する意見が根強いからである。

盛土の向こうに見える防災対策庁舎。現在は、立ち入り禁止になっている。
 2016年3月に東日本と阪神淡路大震災体験者によって高野会館保存プロジェクトを発足、2017年9月に関係機関・南三陸町に要望書を提出していたが、先月、町から遺構として維持管理しないとの回答がなされた。「(震災遺構への)国の財政支援は1市町村1件で、防災対策庁舎が対象になっている。町の一般財政で会館を保存できない」とのことであった。

   マスコミは、防災対策庁舎で最後まで避難アナウンスを続けて津波の犠牲になった町職員の遠藤未希さんを美談として取り上げているが、実際は上司であった三浦毅さんが遠藤未希さんを退避させ最後まで放送し、犠牲になっている。現在も町長を務める佐藤仁町長以下54人が防災対策庁舎の屋上に逃げたが、助かったのはわずか11人だった。遠藤未希さんの使命感を美談として残すことも意味のあることであるが、我々の記憶に残すべきことは、悲しい美談だけではなく、どうしたらあの不幸を再び繰り返さなくて済むかということではなかろうか。

南三陸ホテル観洋から毎朝、防災対策庁舎、高野会館を巡る「語り部バス」が運行されている。ホテルの渉外部長の伊藤文夫さんも語り部のひとりだ。
南三陸ホテル観洋から毎朝、防災対策庁舎、高野会館を巡る「語り部バス」が運行されている。ホテルの渉外部長の伊藤文夫さんも語り部のひとりだ。
高野会館では、当時、高齢者による芸能発表会が開かれており、震災による津波は4階まで達したが、327人と2匹の犬は、屋上に避難して助かった。パニックとなった参加者たちは会館を出ようとロビーに殺到したが、「生きたかったら、ここに残れ」、仁王立ちした男性の怒鳴り声が響いた。従業員らのとっさの判断が全員の命を救ったとされている。しかし、実際は、8名が従業員の制止を振りきって外に出て、そのうちの6名が命を落としている。

「防災という言葉がありますが、大津波のような自然災害は防ぐことはできないんです。15m以上の津波なんて誰も想定していなかったんです。」「大事なことは、とにかく逃げて命を自分で守ることなんです。」「その置かれた状況での判断が大事で、堤防があるから安心だとか、避難所に逃げれば大丈夫だとか、離れているから大丈夫だとか決して思わないでください。」

「海の近くの漁師は、海を見て津波の大きさを判断してすぐに逃げて助かったのです。高い堤防を作ってしまっては、その判断もできなくなってしまいます。」

「ご遺体の火葬はいつも夜行われました。涙は出ないんです。淡々と行われました。ただ、その例外もありました。一家全滅してしまったご家族の娘さんが東京に出ていて助かり、戻って来られてお母さんの火葬をされているときでした。私の娘と同窓ということもあり、私を見つけてしがみついてきて泣きだしました。私はこの娘にかける言葉がありませんでした。もう帰る家がない。会いたい家族がいないのです。泣くまいと我慢しましたが、だめでした。帰りの車で私は大泣きしました。でも、悲しかったのではないのです。悔しかったのです。こんな想いは二度としたくない。誰にもこんな想いはさせたくない。そんな気持ちがいま、私に語り部をさせているんだと思います。」

この南三陸ホテル観洋の「語り部バス」は、第3回ジャパン・ツーリズムアワード大賞を受賞し、また、「語り部」の役割を「KATARIBE」として世界に広げようと全国被災地語り部シンポジウムがスタートし、第3回は、女将さんたちの努力で、2018年2月に南三陸ホテル観洋にて開催された。女将さんは、これらのシンポジウムの中で、「長く語り継ぐには目で見て伝わる物言わぬ語り部である震災遺構も必要」「語ることで交流が生まれ、前を向ける」「KATARIBE(語り部)を世界の共通語にしたい」と訴えている。

 女将さんたちの活動で素晴らしいのは、何よりも、自分たちの地域で起きた出来事を自分たちでなければ語れない言葉で外に向けて語り続け、そして外部との交流が生まれ、地域が活性化していくという前向きの姿勢である。自己犠牲の美談を前面に出しても地域の活性化にはつながらないし、ご家族の悲しみが癒えることにはならない。

 では、自分に起きた出来事として語ることのできない我々には何ができるのだろう。女将さんは語り部の話を聞いた人が第2の語り部になる必要があるという。それでこの文章を書いた。今回、高野会館の内部の360度3DVRとドローンの撮影をさせていただいた。肩を寄せ合い一夜を過ごした327人の方のそのときのお気持ちに少しでも近づければと思う。

2018年3月11日、南三陸ホテル観洋の近くの小高い丘「海の見える命の森」で女将さんたちの活動を支援するグループの追悼集会が開かれた。
挨拶をする女将さん
鎮魂の石碑の前に花を捧げて祈る参列者
桜花見広場 鎮魂の石碑

志津川湾を一望するこの「命の森」から、死者、行方不明者合わせて842名の御霊に鎮魂の願いと、災害時に「命てんでんこ」の教えを守り、必ずや命を守り切ることを誓う為に鎮魂の石碑が建立された。

石碑の文字「伝えよ 千年万年 津波てんでんこ」

「てんでんこ」は、「てんでばらばらに」の方言で、「津波てんでんこ」は、津波のときは家族さえ構わずに1人でも高台に走って逃げろという意味。家族や集落の全滅を防ぐために語り継がれてきた。

地震発生の14時46分のサイレンに合わせて合掌
この丘には町民とボランティアの努力で、4千本の桜が植樹され、いつの日か、この海の見える命の森で満開の桜が咲くという。

未来を語る女将さんの笑顔が素敵だ。

2018年3月12日 株式会社アレイズ 泉 邦昭 記

(謝辞:この機会を与えていただいた仙台市在住の元NHK報道カメラマン小林裕氏、株式会社ビジュアルコミュニケーションズ小山一彦氏に感謝します。)